中央不動産はどこから来てどこに向かうのか ②
田舎暮らし・二地域居住と相続・事業承継
当社では、近年よく雑誌などでも取り上げられるテーマである、田舎暮らしと相続を不動産の仕事の軸として取り組んでいます。これはどちらも私の個人的な体験が元になっています。
私はもともと愛知の出身でした。この会社の創業者で今は亡き田中友幸氏の娘と結婚をし、それを機に伊那市に移住することになり建設・不動産の仕事に就きました。
当時は、中央不動産よりも先に創業した株式会社ニッソウという建設会社がメインの事業で、当社はその不動産別会社のような位置付けでした。
田中友幸氏の創業から私が来るまで
本人曰く、”水飲み百姓の四男坊”伊那市のお隣、箕輪町出身で5男1女の4番目で兄達は役所やら中部電力やらに就職して東京や飯田に出てしまいました。
残された義父は、高校を卒業すると両親と田畑を耕しながら、寒天を担ぐ仕事やみかんを担ぐ仕事など出稼ぎに出ていたそうです。
そんなころ、ブロック建築のブロック積みの仕事をするようになったそうです。力があって仕事が速かった義父は当時すでに東京で事業を起こしていた兄達の影響も受けて20代半ばで個人事業の土建屋として独立。
高度経済成長の波にのってどんどんと仕事を増やし、28歳で8歳年下の義母と結婚すると、翌年の昭和43年には日装建設株式会社を設立しました。
(40数回もの見合いを断り続けて来た義父に見合いで一目惚れされ、追い回され続けて根負けして、ハタチそこそこで結婚した義母の話はまた別の機会に。)
それまでは基礎工事やブロック塀などの土方仕事が主だったのですが、義母の父親(妻のおじいちゃん)が大工だったので、そこからは住宅など建築工事も請けるようになりました。
田中角栄の代名詞ではありませんが、「コンピューター付きのブルドーザー」タイプで、エネルギッシュで押しが強く、ひょうきんな所のあった義父は営業力があり、仕事をどんどん取って行きました。
それを裏で支えたのが義母で、子供を背負いながら経理や事務をし、夜には試験勉強をして、宅建主任の資格をとり、昭和55年に別会社の有限会社中央不動産が設立されました。
ハウジングセンターなどはなく、住宅建築はほとんど口コミだった当時、土地を探しにきたお客さんに良い土地を紹介し、建築もうちに任せてくれと営業するのが一番効果的だったようです。
車にお客さんを乗せて土地の案内する途中に自社の建築現場も何軒かまわり、工事の様子も見せることで、帰ってきたときには土地も建築も話がまとまってしまうなんてこともしょっちゅうだったそうです。
その後、平成4年にはCIブームに乗って、建設会社の社名を株式会社ニッソウと変更しました。(ちなみに、日装建設は日本を装う建設会社、中央不動産の中央は日本の真ん中という意味合いだった)
ニッソウの方は伊那市の隣の南箕輪村にあり、村や県の公共工事も請け負い、10名ほどの従業員と専属の大工さん、協力業者を抱えて、堅実に営業していました。
そして、平成8年に東京で働いていた三人娘の次女(現・私の妻)がUターンして中央不動産で働くようになり、当時の私は思ってもいなかった伊那へのレールが引かれるはじめたのでした。
長くなってきたので、今日はこの辺りで。
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中央不動産はどこから来てどこに向かうのか
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1件の返信
[…] 前回のブログで、私が妻と結婚したことが理由でこの中央不動産の仕事をしていること、そして義父の創業からの歴史を簡単にご紹介させていただきました。 […]